心の扉をパカっと開く

高校1年生の時、親友のひとりが地元から東京へ引っ越してしまった。中学1年生からの仲で、近くにいた年数より離れていた年数の方が圧倒的に長いにも関わらず、彼女はまぎれもない私の親友だと思う。

 

彼女はよく本を読む子だった。冬の寒い日に登校したら、隣の県から通学しているため早く到着するのであろう彼女は制服を腕まくりして本を読んでいた。手帳を机にしまう際、ノールックでひどく適当に突っ込む姿が印象的だった。

 

彼女ほどではないが私も本を読むのは好きだから、何となく通ずるところがあった。そして彼女が引っ越してからもそれは変わらなかった。

 

ある日私は、どうしても読んでほしかった伊坂幸太郎の本をレターパックに詰められるだけ詰めて、彼女に貸すべく送りつけた。人に本を貸すというのは、自分の性癖を教えるかのようで少し恥ずかしいのだけど、それでもどこか見て欲しいと思う気持ちがあって、ぎゅうぎゅうになったレターパックははるばる東京まで遠征して行った。

 

最近は人に本を貸すということが少なくなってきて、それはきっと大人になったからなのかな、と思う。本くらい簡単に買える、なんていう気持ちでいるから、わざわざ貸さなくても良いかと思ってしまう。私は本やCDを大切に扱いたいから、傷んだらいやだしな。なんて考えながら、一度だけ私に読まれた本が次々と本棚にしまわれていく。

 

今日、本当に久しぶりに人から本を借りた(先輩はあげるよと言っていたが、明らかに大好きな本だろうから貰うことなどできないと思った)。ここのところ探していた、月と六ペンス。

 

「また会いたい」が言えないから本を貸すなどというような言い回しがあったことを本の貸し借りの際にいつも思い出す。その通りでもあると思うし、前提として、本を貸し借りできるような存在は失うべきじゃないから定期的に会うべきだと思う。本は知識をもたらすのみならず、機会まで私に与えてくれるのだと思う。

 

できることなら、タイムリープができるなら、本をずっと読んでいたい。ほどほどに働くから、本を読んでいたい。話したい。勉強したい。アバウト・タイムのティムのお父さんのように。

 

とはいえ、いい加減本当に笑えないが卒論が全く進んでいません。まあ、なんとかなるだろうなんて思いながら毎日他のことをしています。そろそろ講座が終わるので、また新たな生活サイクルが始まります。時の流れに流されては、昨日も言いましたが、人間1回目です。

 

今日:バイトで褒められました

今聴いている曲:JOY/YUKI

終わりが近づいたら考えるべきこと

1年の終わりかけがいちばん心に風を通す。

 

なぜか人は1年で何事をも区切って、12月31日までに様々なものごとを<片付け>なければならないと思う。それは例えば1年の間に溜まった汚れだったり、仕事だったり、後回しにしていた趣味のあれこりだったりする。

 

この場合の<片付け>には2種類あると思っていて、それは物理的に片付けることと、諦めることだ。

 

365日、毎日元気に過ごせるようには人間設計されていなくて、例えば女性なら月に1回厄介なくらい腹痛と眠気に悩まされるし、歳を取るほど二日酔いは治らない。

 

そんな時に部屋の隅々までお掃除が出来る訳なくて、またベッド下の掃除を適当にしてしまった…、お手洗いのマットにコロコロかけ忘れた…などとなってしまう。そんなこんなで溜まった汚れを、あたかも許しを求めるかのように年末にさっぱりさせてしまう。

 

学生最後で、人生でいちばん時間があるのは今かもしれないのだから今年こそはちゃんとドイツ語を勉強しよう。来年からは社会人なのだから、毎日図書館で新聞を読もう。そうそう、映画も沢山観て本も今のうちに読んでおこう。哲学の勉強、今しかできないかもしれないな。

 

そんなことを普段から考えつつ、また1日1日が過ぎ去り、移動中はまずスマホをチェックし終わってから本を読むものだからいかんせん読書の時間が少ない。スイッチが入れば観られるが、2時間を拘束される映画は少し飽きてしまうこともあって、ついタブレットの電源をつけてYouTubeを見る。

 

年末になると、普段の自分を戒めつつも、「今年は無理だったけど、来年なら頑張れる。」そんな都合の良いことを考えながら目標を諦め、そしてあたかも新たな目標のように「今年こそ」と語るのだ。

 

人間、必要に迫られないと何事もできないのだと思う。仕事があるから早起きするし、恋人にかわいいと思ってもらいたいから髪がきれいになるよう丁寧にトリートメントを塗り込むし、乾燥しないようにパックをする。

 

たぶん私がドイツ語を勉強するのは本当にドイツに行けることになった時の前だし、新聞を読むようになるのは尊敬する人が必ず新聞を読んでいる、と知った後だ(私は、こういうことにめっきり弱いのだ。すなわち、凄いと思う人にすぐ影響される)。哲学を勉強するのは、うーん、こればかりは来年くらいなら本当に出来る気がする。なんとなく。

 

年末は色んなことを諦めないといけません。意外と時間がないし、「今度ゴハンいこ!」を2017年に叶えることはたぶん無理です。諦めるからこそ、本当にもう一度飲みたいなと思う人や、今後も時々近況を聞きたいなと思う人にはちゃんと声をかけなければと思います。案外声を掛けていなくてもひょんなことから会える人はいますが、運に頼っている内はまだまだ人間1回目だと思うのです。

 

さっ、12月も頑張りましょう。

 

今日:講座に遅刻しています

嬉しいこと:疲れた時に買ったいか明太がとても美味しかったこと

おっきい方がいいに決まってる

母からお下がりのスタジャンが届いた。レトロなのだけど、裁縫が得意な母が少し手直しをしてくれたお陰で可愛いのだ。ついこの間なにも考えず最近ハマっているユニクロで同じく黒のスタジャンを買ってしまった私にも響くレトロさだ。

 

母はお米やお野菜、果物こそ送りはしないが近所のスーパーで安かったふりかけやお菓子、おかずの素を荷物によく添えてくれる。今回も棒ラーメンやワンタンが入っていて、母の愛を噛み締めていた。

 

と、その中にいつもと異なる<ただならぬ雰囲気>を感じた。何だ!?

 

勢いあまりながら手に取ると、そこには、プッチンプリンのミニバージョンが入っていた。ち、小さいプッチンプリンだと…!

 

ひとくちプッチンプリンには、コンプレックスがある。いくら<ひとくち>と銘打たれいかにも新規性を持って発売されたように見えても、結果自分はプッチンプリンなのである。あくまでも下位互換。大きいものには勝てない。いや、プッチンプリンが大きいのではなくて、自分が小さいだけなのだが。

 

仕事の休憩中に持参したお弁当を食べるOLがプリンを食べるなら、ひとくちより通常サイズで沢山食べたいに違いない。それにアイデンティティであるプッチンがないではないか。ああ、なんと罪深い存在なのだろう、自分は…。

 

そんな悩みを抱えつつうずくまっていると、急に明るい場所に出た。食いしん坊そうな女の子の顔が見える。「ひwwwひとくちプッチンプリンwwwww」やたらウケているが部屋は静まり返っている為この女の子は1人でウケているようだ。なんかちょっとキモいけど、嬉しそうな顔が見られるなら、自分ももう少し頑張れるかもしれない。

 

まさかひとくちプッチンプリンがここまで感傷に浸っているとは思わず、私は湯船でこのブログを書きながらお腹を空かせている。

 

ひとくちプッチンプリン、良い発想だと思います。これからバイトに持っていくことが増えるだろうし、確実に私の心は掴まれました。いつか飽きて気持ちがプッチンと離れるまで、仲良くしような、ひとくちプッチンプリン

 

今日:やれば褒めてくれるバイトは最高だと痛感しました

明日:講座が終わりに近づいていて寂しいです

何がなんだかさっぱりピーマン

ピーマンを買う大人になる日が来るとは思わなかった。

 

ピーマンは苦いし、どんな料理に入っていようと絶対に存在をアピールしてくるし、とにかく厄介者だと思っていた。ピーマンの肉詰めなど、喜んでいいのか嘆くべきなのかいつも分からなかった。

 

相変わらず私は食パンに乱暴ケチャップを塗り、チーズを載せてトースターに押し込む生活をしているのたが、今朝はピーマンを載せてみた。1つまるまる載せるには少し多かったが、端数のピーマンの引き取り手など見つかるはずが無いので無理やり載せた。

 

いざ焼き上がってみると、とっても美味しいのだ、これが。ベーコンなど要らない、ケチャップ・チーズ・ピーマン、これだけでいいのだ。

 

ケチャップとチーズだけだと少しくどくなってしまう。いかにも、ジャンクフード摂取中!と広告されているような気分になる。

 

一方でピーマンが載ると、一気にトーストが瑞々しくなる。ジャンクな味を苦味が引き締めて、止まらなくなる。なんて美味しいのだ、ピーマンピザトースト

 

私の父は殆ど毎日、食事のたびにその写真を家族LINEグループに送ってくる人である。まさに、ピーマンピザトーストは彼からの執拗なサブリミナル効果によって満を持して私の食卓に上ったのである。

 

これから暫くアルバイトのために早起きになる。朝に余裕の無い毎日で、着る洋服を前日に用意していないと不安になってしまうくらいには切羽詰まっているのだが、朝食は毎日楽しみたい。

 

もう、12月ですね。今年も沢山楽しいことがあったなあ、などと感慨に耽る前に、ちゃんと卒業できるよう頑張ります。残り31日間の2017年を走り抜けましょう。

 

今日聴いた曲:ファイト!/中島みゆき

 少し悲しいこと:スタバの新作があまり口に合わなかったこと

ダメになりそうなさつまいも

毎日お味噌汁を作って、冷凍しているごはんを温めてホッコリしたいと思いつつケチャップを乱暴にかけてチーズを無造作に載せトースターに突っ込む毎日である。しまった、またブログの更新をさぼっていた。

 

キリスト教徒ではないが私は不定期安息日システムを導入している節があって、週に1度は必ずダラダラダラダラする日が無いとヤケになってしまうことがある。

 

なまじっか料理ができるばかりに、忙しさと疲れで料理をする気力のない時に手に取るカップラーメンへの罪悪感もすごい。その罪悪感が皮肉にもスパイスとなり、カップラーメンの美味しさを増長させる。

 

私の母は料理に対して器用な方ではないと思っていて、それは例えば必ずチャーハンがダマになっていること、お味噌汁のおネギがつながっていること、オニオンスライスはきまって辛味が抜けきっていないこと、些細だが少し心に残る料理を披露してくれる。

 

一方私は中高6年間で培った調理部の経験を生かし、料理をする人なら<なんとなくこうした方がいいだろうな>と勘づきそうなポイントに関しては取りこぼさないくらいになっていると思う。几帳面で、理屈で物事を考える父と大雑把で、感覚とノリで前進する母のいいとこ取りをして要領の良い三女になったのだと自負している。

 

とはいえここのところ、本当に行き当たりばったりの生活をしていた。お財布の中から定期的にレシートを処分するのだが、ま〜〜〜本の衝動買いが多い。コンビニでちまちまと腹を太らせている。飲み会は基本断らないポリシーが月末の私を苦しめている。残金、1274円。

 

明日からは出来るだけ家からおにぎりを持って行って、水筒にほうじ茶を淹れて、家で一手間かけてごはんを作る喜びを帰宅前に思い出せる心の余裕を持って、卒論も早く書いて先生に見てもらって、ゼミの後輩の発表文献読んで、講座の課題を本当にちゃんとやらないといけなくて、ぶつぶつ…ブツブツ…………おやすみなさい。

 

今日:会社でのバイトは社会人気分です

最近探している本:月と六ペンス

共に眠る本について

私には「枕元本」がある。読んで字の如く、枕元に置いてある本である。私のベッドの横には小さな本棚があって、そこに20冊程度の本を常に置いてあるのだ。

 

枕元本の条件は至ってシンプル、<眠る前に読んでも心が荒れないもの>だ。誰だって眠る前にトワイライトを読んだら続きが気になってしまい血を見てゴクリと喉を鳴らすヴァンパイアの如く殺気立つだろうし、まして枕元に『白痴』を置く女子大生の運気は最悪だと思う。

 

そんなこんなで、優しくて、とても気に入っていて、心を暖かくしてくれる本は、私の枕元へと集うシステムになっている。枕元本を牽引するリーダーは、「今日の猫村さん」である。

 

今日は朝ぽっかりと時間が空いたため、古本屋さんに行きいいものはないかと物色をした。村上春樹訳の海外文学を見つけ、いつも海外文学は途中でやめてしまう私もこれならば読めるかもしれない、と期待しながら購入した。加えて、ずっと読もうと思いながら機会の無かった星新一も2冊ほど購入した。

 

満足げに3冊を手にして駅へ向かう時、ふと探している本があるのとを思い出した。古本屋さんには無かったから、書店へ行かねばと早足で向かい、目を凝らしながら新書の棚を探した。購入したのは、「はじめての構造主義」。これがなかなかに面白いのである。いや本当に。

 

最近ゼミの教授が知識人であることに少なからずへこんでいたのだが、先生が仰っていたことがぼんやりと繋がる感覚があった。とても嬉しい。でも多分、枕元本には入らないと思う。

 

夜眠る前にベッドの中で少し課題をしてから、はじめての構造主義を読み、寝てしまおうと思っていました。あ、でもブログ書かにゃ!と思っていたら、枕元本のくだりでスヤスヤと寝てしまいました。8時間もよく寝たので、案外はじめての構造主義は癒しの効果があるのかもしれません。なわけない。

 

今日:おばあちゃんちで猫をもふもふもふもふしました

思うこと:生まれた土地はなぜか心が落ち着きますね

4.000円の飲み会を許すな

今日は朝から雨が降っていた。なんということだろう、お昼ごはんを母と食べに出かける以外、私は今日一日ずっと眠っていた。

 

特に寝不足でもないのだが、これがどうしてか家族といる時はとてもよく眠ってしまう。帰省の1日2日目などがまさにそれで、母の手伝いをしたり姉と出かければいいものを、ただただ寝て過ごしてしまうことがある。

 

昨日は両親ととっても美味しいお寿司を食べた。いつもの如く父とはエビスビールで乾杯したのだが、2杯しか飲んでいないというのに顔が火照っているのがとてもよく分かった。そして何故か、3杯飲んだ父でさえも帰り道とても調子よくご機嫌になっていた。

 

普段3.500円前後の、質が安い飲み会であおる10杯分のビールが、家族と交わす2杯のビールになるのだと思う。お酒を飲む時に、ここまで質が反映されるのかと初めて感じた。

 

私の家族はそこまでお酒が強くなくて、父と祖父はお酒が好きでそれなりに飲めるようになったが、めちゃくちゃ強い訳ではない、というタイプだ。私も、というより私だけその血を受け継ぎ、日々の飲み会に精を出し、たまに父と晩酌してはくすぐったい気分になる。

 

母はというとお酒を一口でも飲めばふだんのお調子者が高じるようで、焼肉屋さんでレモンを焼き出した時は、やれやれと笑ったものだ。

 

お酒は別に飲まなくても生きていける。今日は久しぶりにケーキを食べたのだが、ケーキはとても美味しいし二日酔いなんてない。ましてお寿司は幸せと感動しかもたらさない。

 

なんて言いつつ、今日もまた、飲み会に行ってきます。知らない人が沢山いる飲み会なので少し憂鬱なのですが、なんとかできたら良いなと思っています。なんとかできなかったら、明日は祖母に会うので、笑って元気をもらおうと思います。

 

今日:とてもおいしいお好み焼きとおむすびを食べました

明日:ねこをモフモフモフモフモフモフします