世の中結局お金だと思う

今日、所持金が40円くらいになり、口座には510円しか入っていなくて、260円入っていたICカードでぎりぎり200円の距離をバスで帰ってきた。

 

お金がないのである。

 

最近の母は元気な性格とは裏腹に少し体調を崩すようになっていて、例えばそれは脂多めのラーメンを食べたらその後気持ち悪くなってお腹を壊すような、飲み会終わりの大学生のようなものなのだけど、娘の中で一番実家に近い者としては何かあった時にすぐ駆けつけたいと思うものだ。

 

父といえば娘たちにはナイショでこっそり車をぶつけたりしていて、しかも修理に17万円もかかっていたりするような、自分が行ったことのないお店に母と娘たちが行っていたらいつまでもいつまでも根に持つような、放っておけなさを具現化したような存在だ。

 

成人してから、両親に何かあった時のことをよく考えるようになった。

 

私の好きな小説に向田邦子さんの「父の詫び状」がある。喪服を誂えた後に親戚が亡くなってしまった、という話がとても印象的で、不幸に対する準備はどこか心苦しい気がする、と述べられていた記憶がある。

 

それでもやっぱり、私は不器用で時々両親に生意気な口をきくし、ちゃんと話を聞いていないこともあるし、かつて教科書代を少し多めに請求したこともあるような娘だ。自分が何をできるか、という意識はこれからも持っていたいとほんのり思う。

 

向田邦子さんが喪服を作る時、業者さんに「ただ、黒い服を作ると思えばいいのよ。」と言われたそうだ。それもそうだ、私も、父と母の最高の未来を考えているだけなのだ。

 

20年以上生きてきて、これからさまざまな別れを経験すると思う。もし、カラッポになってしまったとき、カラッポになっていることにも気付けないとき、せめて2ヶ月くらいは生活に困らないお金を握りしめて、どこかに行きたいと思う。日本でも、海外でもいい。なんせ私は、最近10年パスポートを取ったから。

 

なんとなく、しんどくなったら、私は香川県に行ってしまいそうな気がする。夜行バスに乗って。間違いなく、村上春樹をこじらせている。

 

今日したこと:高校の友人とワインを飲んだ

今日の気づき:お金がないけどなぜか楽しい